夕張 35年目の10月16日 その2

前回の続きです。

沼ノ沢駅を後にして、次に目指したのは清陵町の山奥にある夕張新鉱の跡地。
2010年には総合事務所跡や立坑跡に訪れているものの、2014年はゲートが閉まって乗り入れできなかったこともあり、ヒグマの恐怖にビビって引き返してしまった。
あれから2年の月日が流れた……。


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12:35 PM
2年前に来た時は、ゲートが閉まっていたので奥まで行かずにそのまま引き返したが、今年は徒歩で新鉱の総合事務所・立坑跡まで向かうことを決めた。
肝心の駐車場所だが、ゲート手前にある農家の敷地内にズカズカと入り込んで停めるのはさすがに失礼なので、砂利道の脇にある、ちょっとした草地へ邪魔にならないよう長江を置いた。この場所から新鉱の跡地までは、自分の足だと15~20分前後だろうか。

船のトランクから荷物を取り出している最中、ガス突出事故の発生時刻である12:41 PMを迎えた。


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新鉱へと向かう林道のゲートは固く閉じられている(「もしゲートが開いていればそのまま奥まで乗り付けて…」と邪な期待をしていたが、現実は非情だ)。林業や工事関係者以外は車での進入はできないので、ここは素直に徒歩で向かうこととなる。ゲートの脇を通って奥へと進む。


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ゲートを越えたら熊避けのために「あー!!」とか「おーい!!」などと数十秒ごとに叫びつつ、落ち葉が軽く積もった林道内を進んでいたちょうどその時、突然「パアァァァーーーン」と耳をつんざく音が右手から聞こえてきた。

!!…これは銃声だ!

瞬間的に姿勢を低くして身構える。
どうやら銃口をこちらへ向けて撃った訳ではない…とは思うが(もし撃たれたらシャレにならん)、射手は100mほど離れた北の沢林道の河原付近にいると感じた。一応は森の中でも目立つように派手なオレンジ色のジャケットを(遭難対策として)着てはいるが、こういう事態になると少々困る。


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そういえば、ゲートの横に猟区を告知する看板が置かれていたのを思い出した。森の中にいるエゾシカでも狙って撃っているのだろうか? ……とも考えたのだが、新鉱跡へ到着するまで同じ方向から10発以上の銃声が断続的に聞こえたので、もしかしたら木の幹や石ころに向けて撃つ練習でもしていたのかもしれない。やれやれ。


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物騒だが、とりあえず気を取り直して林道を歩く(まだ後ろからは何発か発砲音がしている)。しばらくすると南の沢林道との分岐点にさしかかった。ここでは脇道へそれずに直進をする。


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分岐を進むと右手にペンケマヤ川が見えた。川幅は狭く、水量はかなり少ない。
地図上で距離を計測すると、ゲートから新鉱跡地までは約1600mほどで大したことはないのだが、一人で薄暗い林道をトボトボと歩いているうちに、孤独感もあって妙に長く感じてくる。笹藪からヒグマが出てきたらイヤだなぁ……。


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歩きながら色づいた木々を見やる。
当時の事故に関する書籍などを読むと、35年前のこの日、夕張新鉱周辺の山々は紅葉の最盛期で燃えるように鮮やかだったという。そしてその美しい紅葉の中、救急車がサイレンを鳴らしながらひっきりなしに林道を走り、上空には何機もの報道ヘリが飛来していた。


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6年前の2010年に訪れた際には路肩が大きく崩落していたカーブ周辺も、今ではきちんと修復されていた。ただ、左側から沢水が流れ込んで路面を濡らしているのがちょっと気になる。地盤が緩んでまた崩れたりしないだろうか。


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うげっ……この状況下で一番見たくないものが、いきなり視界に飛び込んできた。道の真ん中に落とされたヒグマのウンコである。知ってる人は知ってるとは思うが、夕張市内にある山林のほとんどがヒグマの生息域である。ただし、このウンコは排泄されてから5~6日程度の時間が経過していることが救いだろうか(できたてホヤホヤだと至近距離にヒグマがいる可能性が高いので危険)。
せっかくなのでこのウンコをよく観察してみると、中には未消化の植物種子(ヤマブドウか?)が多数存在し、いくつかの小さな糞虫(フンコロガシの仲間)が忙しそうに取り付いていた。あと10日もするとこのウンコは分解されてかなり小さくなるだろう。


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突然のヒグマのウンコで肝を冷やしたが、とりあえず気を取り直して林道を歩く。
しばらくするとカーブ手前の道路端左側に立てられた『警笛鳴らせ』の錆びた標識を発見。現在の同じ標識と比べると描かれ方が左右逆になっている(それとも設置時に作業員が逆につけてしまった?)。


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薄暗い林道を歩いていると急に視界が広がり、ススキに覆われた広場が右手に現れた。ここは新鉱の変電所跡だ。
北炭清水沢火力発電所から高圧鉄塔を経由して送られてきた電気は、ここにあった変電設備で変圧をされた後、坑内外の機械類を動かすのに使われた。


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変電所跡からさらに200mほど歩くと通洞が出現。清陵町側のと比べると、ここの鉄柵はいかにも片手間で組み付けた感じがして、かなり雑な作りだ。稼働当時はこの通洞の横に腰をかけるベンチなどが置かれていた。


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入口の手前5mほどに近づくと、通洞の奥から微かに泥とカビの臭いが合わさったような湿っぽい冷風が漂って、自分の身体を包み込んだ。正面に見える扉の金具には通洞内へ立ち入らないよう錠がガッチリとかけられている。


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ふと足元を見ると、人一人が通れるくらいの幅で草が倒れており、しっかりとした踏み跡が確認できる。今でも自分みたいな人間がここへ訪れているのだろう。


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通洞から北へ100mほど離れた場所にある爆薬の分配所。位置としては繰込所がちょうど目の前だ。
変電所から林道を挟んで向かいにあった爆薬庫から爆薬や雷管を出庫し、この分配所内で発破資格を持つ担当鉱員にその日の作業で必要な量の爆薬を渡していた。もしこの内部で不意に爆発をしても被害を最小限に食い止められるよう、建物はコンクリートで頑丈に固められ、斜面に半分埋まったトーチカみたいな構造となっている。


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以前(2010年)来た時には入り口が土砂で塞がれていたが、いつの間にやら誰かが端をスコップで掘り込んだらしく、中に(体をよじれば)入れるようになっていた。自分も入ってみたい衝動に駆られたが、生憎手元にまともな照明器具が無く、しかも単独行なので無理は禁物。隙間から頭を突っ込んで覗き見る程度に留めた。
とりあえずミニライトで照らしてみると内部は深く、5~10mほど奥行きがあるみたいだ。うーむ、これについては今後の課題としたい。


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爆薬分配所の前には、分厚いコンクリートで完全に密閉された第一立坑(右)と扇風機風洞(左)がある。


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第一立坑跡の上に乗ってみる。
上部にはガス抜き用の錆びた放散塔が設置されている以外は、特にこれといったものはない。放散塔の根本にあるバルブも試しに回してみたが、長年風雨に晒されて完全に錆びついているため、ピクリとも動かなかった、


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巻室側から立坑を見る。
さすがに総合事務所解体から30年以上の月日が立つと、人の手が一切入らないせいかコンクリが打設された場所にも樹木が生い茂ってしまう。所々に明るい水色のものが露出しているが、これは巻室の床面に塗られている塗料の色だ。


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巻室と立坑の間に埋まっている新R型立坑櫓の基礎。その横で大きく成長しているシラカバにも注目。


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巻室の周辺にいくつか転がっていた鉛バッテリー。ちなみに中身の硫酸は完全に抜けきっている。大きさとしてはティッシュ箱を一回り大きくした程度だが、持ち上げてみるとカーバッテリー並にずしりと重たい。
機械類の非常時動作用として使われたのだろうか?


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三角形という特徴的な形状をしている扇風機風洞
この辺はセイタカアワダチソウが猛烈な勢いで茂っており、冬山のラッセルみたいに漕いで接近をした。
だけどせっかく近づいて撮影したこの画像、若干斜めに傾いているな……。


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繰込所の中心部から立坑・扇風機風洞方面を望む。


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繰込所に落ちていた鉱員用キャップライト。バッテリー上部の金具にあるはずの番号票は付いていなかった(軍隊において兵士の首から下げる個人認識票【ドッグタグ】と同じく、各鉱員のバッテリーには数字が刻印された5cmほどの小さな金属票が必ず貼り付けられる。これは坑内災害に被災した場合、判別がつかないほど損傷した遺体の氏名を確認するためだ)。
ふと、この捨て置かれたキャップライトを使用していた人は、今でも存命なのだろうか…と頭に浮かんだ。


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完全に破壊された坑口浴場の浴槽。浴槽は全部で6個並んでいるが、この画像のと同じ大きさのが5つ、半分ほどの大きさのが1つ(変電所側)ある。
4年前に訪れた釧路コールマインの体験入坑後に入浴した浴槽と比較すると、大きさはほぼ同じくらいだが、こちらのは少し浅いような感じがする(浴槽内は瓦礫と雑草で埋めつくされているので詳しくは分からないが)。

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新鉱の跡地をデジカメ片手にあちらへふらふら、こちらへふらふらと気が向くままに彷徨いながら撮影をしていたが、ここで時間を確認すると13:20 PM。太陽もすでに斜めとなり、地面に落ちる影も次第に細長くなり始めていた。秋の日は短いので、探索はこの辺で切り上げて戻ることにしよう。
通洞から直線距離で400mほど離れた場所にある第二立坑跡にも行きたかったのだが、これから薄暗くなる時間帯だとヒグマに遭遇するのが怖いので、ここは素直に諦めることにした。
人気の全く無い山奥での単独探索は「命あって」のもの。あくまで「趣味」でやっている事なのだから、こういう時は臆病なくらいが丁度良い(と自分に言い聞かせる)。


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新鉱跡から林道ゲートへ向けて歩いていると、途中の水たまりの近くに何やら小さな細いロープが落ちているのが見えた。「奥へ行く途中に捨てられたロープが落ちていたっけ…?」と思いながら近づいてみると、それはロープではなく泥の上で一休みをしているヘビだった。
長さ40cm、直径は2cmほどの小さなヘビ。生き物の同定は得意ではないが、アオダイショウやジムグリなどの幼蛇だろうか? いや、もしかするとヒバカリ?  休憩中に突然人間に近寄られて驚いたのか、このヘビはクネクネと這いながら林道脇に積もった落ち葉の山へと潜り込んでいった。邪魔してゴメンよ。

13:40 PM  林道ゲートへと無事到着。頭上を鬱蒼とした木々が生い茂る林道を抜けて農家や畑が視界に入るとホッとした。
長江の横でペットボトルのジュースを飲み、一息ついてから清陵町へと移動する。


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林道ゲートから5分ほど走ると清陵町の通洞・慰霊碑前に到着。中央奥に見える建物は清陵町の公衆浴場(炭住アパートには風呂が無いため)。
いつもはほとんど人気の無いこの場所も、今日は事故の発生した日ということで、広場には慰霊碑に手を合わせに来たと思われる数台の車が駐車していた。


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 ”我が新鉱をがつちり守ろう 出稼保安生産で”
昔と比べると色がかなり褪せてきた新鉱の標語看板塔。6年前に撮影した画像と比較すると一目瞭然だが、あと7~8年もするとこの標語のペンキ文字は、ほとんど消え去ってしまうのではないだろうかと心配になる。
書かれた標語をよく読むと「出稼」が一番で「保安」が二番目となっている。炭鉱を経営する会社が保安を蔑ろにするような傾向を持っていると、坑内災害の続発は必然であった()。
そしてこの標語と同じ構図は未だに日本の多くの企業や組織にはびこり、多数の労働者の生命を奪っているのは、ここ最近のニュースでも御存知の通り。事故から35年が経過していても大して変わらんのだ、この国は…。


逆に釧路コールマイン(旧:太平洋炭鉱)では、過去に繰り返し発生した重大事故を教訓とし、坑内災害を防止するために、炭鉱でありがちな出炭量至上主義を捨てて「安全第一・生産第二」という標語を繰込所に掲げている。


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夕張新鉱殉職者慰霊碑
碑の台座には、1970年の建設工事開始から閉山に至るまでの間に、夕張新鉱で命を落とした作業員120人の名が記されている。多くの者の命日である本日、ここへ来て花束や線香を供えていった遺族の胸中は如何許りか。


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清陵町側の通洞入り口。
以前に訪れた時と比べると下草が刈られ、ある程度は整備されていた(10月16日ということもあるかもしれないが)。足元はグジュグジュとやや湿っているものの接近は容易。
周辺の町内会の人たちがわざわざ手入れをしたのだろう。頭が下がる思いだ。


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夏場なら上から垂れ下がる茂った枝やツルがこの坑口を覆っていたのだろうが、葉が落ちた今時期だと、坑口に掲げられた文字も見ることができる。ここは総合事務所側と違って20mほど奥で密閉されているので、近寄ってもあまり冷風は感じない。


次は通洞・慰霊碑から400mほど離れた場所にある、ボーリング(試掘)現場へと移動。

当然それらの周辺は工事関係者以外立入禁止であり、すぐそばへ行くことは不可能……だがカバー等で目隠しはされていないので、遠くの邪魔にならない場所から作業を(勝手に)見学することとした。


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今年の春からテレビや新聞などで何度か報道されていたが、9月15日から旧清陵小学校跡地において、炭層中に含まれるメタンガス(コールベッドメタン CBM:Coalbed methane)を地上から吸い上げる試験が実施されている。
この試掘井の名称は夕張CBM-清陵1号井。ボーリングの目的は炭層内に含まれるメタンガス及びコアの採取と地質の確認、採掘に関連する様々なデータの収集と思われます。

発注者は夕張市(まちづくり企画室)、施工者はエスケイエンジニアリング、アドバイザーとしてNPO 地下資源イノベーションネットワークが参加をし、JAPEXと夕張地区のガス採掘権を保有するレアックスが共同で行っています。
掘る深さは960m、試掘にかかる費用は約2億円(うち1億円はJOGMECからの補助金)、工事期間は11月30日までとされています(掘削そのものは10月末頃には完了する予定)。


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深さは960mということなので、夕張層の中でも厚く発達している平安8尺層、10尺上層、10尺層などの夕張新鉱でも掘られていた原料炭炭層(平安8尺は一般炭だが)で試験を計画しているみたいだ。
今回のボーリング調査の結果によっては、2017年度以降から試験生産を実施し、そのまま順調に進めばメタンガスを燃料とするガス発電や、周辺のメロン農家向けのビニールハウス暖房なども視野に入れているという。

この時はちょうどトラックのユニックでボーリングロッドを吊り上げ、順に装填して繋いでいる様子だった。ロッドの内径は30cm前後と思われ、遠目からでも結構な太さと長さがあるのがわかる。


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この高さ30mの試掘井の櫓は、一通り掘り終わったら解体されると思われるので、興味がある人はなるべく早めに行ったほうが良い。20年ほど昔に苫小牧市郊外で見た巨大な石油ボーリング櫓あけぼのSK-1ほどではないにしても、ここは見る価値があるだろう。

だが、このメタンガス事業で肝心の夕張市の財政・収入が好転するかどうかは、まだ誰にもわからない。


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腕時計を見ると時刻は既に午後2時を回っていた。風も冷たく感じてきたことだし、そろそろ帰るとするか(実は南部方面にも行きたかったが…)。
帰り道は若菜から道道3号線を走って由仁を経由して北広島へと抜けた。途中、国道274号線とぶつかるY字交差点にあるコンビニで軽く休憩をとる。15:03 PM


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ちょいと小腹が空いたので、カバンからお菓子を取り出して長江のそばで摘んでいると、突然ド派手な排気音と音楽が聞こえてきた。おもむろに顔を向けると、駐車場に入ってきたのはトライクが6台ほど集まったマスツーの団体であった。ホンダのワルキューレゴールドウイングのトライク仕様の他に、カンナムスパイダーが2台もいたのには驚いたが。
だけど十年来のサイドカー乗りが老婆心ながら言わせてもらうと、いくらノーヘルが法の建前でOKと言われているトライクでも、乗る時にヘルメットは絶対に被った方がいいと思うぞ(全員ノーヘルだったので)。走行中にカーブで膨らんで転倒したり、虫が顔面にヒットしたら、間違いなくただでは済まないのだから……あー、自分も何だか説教臭い人間になってきたなぁ…。
とりあえず15分ほど休憩をした後、自宅に向けて出発。

この後は西の里や厚別で運良く渋滞にハマることもなくスムーズに帰ることができた(観光地からの帰りで混雑する日曜日夕方なのにね)。16:36 PM
以上、そんなこんなで35年目の10月16日の夕張の記録でした。

長江冬眠前にあと一回は走りたい気持ちもあるが、気温と天候を考えるとさすがにもう無理だろうか?


本日の走行距離:144km