萩原吉太郎という男
1926年に慶応義塾大学を優秀な成績で卒業後、三井財閥に入社し、その後しばらくして三井と関係の深かった北炭へ移籍。
移籍後は順調に出世を重ね、敗戦後の石炭需要増大による好景気の波に乗ったこともあり、最終的には北炭会長の座にまで登り詰めた。
「北炭のドン」「北炭の天皇」「石炭の鬼」などの異名を付けられるほどであった。
移籍後は順調に出世を重ね、敗戦後の石炭需要増大による好景気の波に乗ったこともあり、最終的には北炭会長の座にまで登り詰めた。
「北炭のドン」「北炭の天皇」「石炭の鬼」などの異名を付けられるほどであった。
北炭七十年史の紹介写真。
当時の役職は取締役社長で、年齢は55歳だった。
北炭が北海道経済を牛耳っていた時代である。
当時の役職は取締役社長で、年齢は55歳だった。
北炭が北海道経済を牛耳っていた時代である。
北炭創立70年記念映画「黒い炎」に、白ヘルメットと黒の坑内服に身を固めて出演する萩原吉太郎(右)。
彼に対して世間では非常に毀誉褒貶が激しい。「凄い人だ」「有限実行な人」「萩原さんあってこそ」という人がいれば「口先だけ」「信用できない」「詐欺師」という人もいる。
実際、政財界へ持つパイプは相当太く、夕張新鉱の開発工事費や幌内炭鉱復旧費を政府から手に入れたりするなど「石炭ではなく国の金庫を掘った男」とも呼ばれていた。恐らく、かなり目先が利く人物だったのだろう。
そして児玉誉士夫などの右翼との繋がりもあり、黒い噂も絶えなかった。清濁併せ呑むことができたから、ここまで強大になれたのかもしれない。
しかし、あまりにも国の金庫を掘り過ぎたが為に、81年の夕張新鉱事故では政府からも三井からも相手にされなくなってしまった。
「いざとなれば、俺が国に一声かけるだけで金はどうにでもできる」……と考えていたのではないだろうか?
「いざとなれば、俺が国に一声かけるだけで金はどうにでもできる」……と考えていたのではないだろうか?
人を惹きつけるカリスマ性はあるかもしれませんが、個人的にはあまり好きになれないタイプの人間です。