石炭の歴史村 石炭博物館 その1

先週の月曜日のことですが、赤平に続いて夕張市の石炭博物館に行ってきました。
実は三笠市の旧住友奔別炭鉱で開催中のアートプロジェクトとどちらに行こうか迷ったのですが、「また国道12号を走るのも新鮮味が無いな」ということでこちらを選びしました。
我ながらいい加減だ。
 
昨日の赤平ほど遠くではないので、朝8時30分に自宅を出発し、途中で給油と休憩を挟みながら10時半に到着しました。
 
 
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4年ぶりの石炭博物館訪問。
2008年秋に来た時は大煙突のある駐車場に長江を停めて、博物館まで500mほど歩いたのですが、現在は化石展示館前を30台ほどの駐車場にしており、移動もかなり楽になりました。
 
 
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北炭夕張新鉱の新R型立坑を模した立坑櫓。
以前見た時は色が褪せたりサビが浮いたりして状態が悪かったと記憶しているのですが、今では塗り替えられて綺麗になっていました。
櫓の左側に小さな筋で飛行機雲が写っています。
 
 
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本物の夕張新鉱の立坑櫓もこんな感じだったのだろうか…。
 
 
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石炭博物館の入り口前にあるS3型ライスハーケンホーベル。
三菱南大夕張炭鉱で閉山まで使われていた。
 
 
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この分厚い鉄の爪で石炭層を豪快に削っていた。
 
 
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ライスハーケンホーベルの上に茂るのはメタセコイア(和名:アケボノスギ)。別名「生きている化石」。
石炭の元となる木である。左にある黒い物体は(恐らく)炭塊。
メタセコイアはそれまで「既に絶滅した植物」として、地球上には化石でしか存在していないと考えられていたが、1941年に中国・湖北省の利川市で原生種が発見された。
 
 
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それでは博物館に入ってみることにする。
看板左側の写真は「ふるさとヤマ真谷地」に、右側のは「北炭70年」にそれぞれ載っています。
 
 
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受付で入場料1200円を支払う。4年前だと「ぐるっとパス」のせいで3000円もしたので、随分と安くなったな感じる(笑)。
入口横にあるこの巨大な物体はサリバン型エアコンプレッサー。
この機械で作った圧搾空気で坑内にあるコールピックや削岩機を動かした。
 
 
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真谷地炭鉱産の重さ3トンもある炭塊。
狭く危険な切羽から、こういう巨大な炭塊を搬出するのはかなりの苦労があるという。
 
 
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真谷地名物の目無炭細工。真谷地炭鉱で掘り出される石炭は、他地区の石炭と違って、節目がない石炭だった。そのせいで、手先の器用な炭鉱マン達は適当な大きさの石炭を、暇を見つけてはヤスリで磨いたりして好みの外見に加工した。
 
もう何年も前だが、ヤフオクでこれと似たような目無炭の置物が出品されていて、結構な値段で競っていたのを思い出した。
 
 
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南大夕張炭鉱産の石炭。
 
 
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石炭の掘られる場所では、大抵の場合化石も産出します。
これはアンモナイト。大昔の夕張周辺は海の底でした。
 
 
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炭鉱業が華やかなりし頃に集められたと思われる石炭サンプル。
著名な大手炭鉱だけではなく、マイナーな中小炭鉱のもあります。
 
 
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うーん、手にとって見たい……。
 
 
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1階から2階へ移動する途中の踊り場にある石炭標本。こちらは先ほどのとは違って大人の頭ぐらいの大きさがある。
左上段から三菱南大夕張、不明、住友赤平、北炭真谷地楓坑、空知
左下段から北炭幌内、三井砂川、真谷地桂坑、三井芦別、太平洋
不明の炭塊は、自分の予想だと夕張新鉱の石炭だと思うのですが、どうですかねぇ?
 
 
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階段の途中にある大きなレリーフ
東京にあった日本炭労に展示されていたものだという。
 
 
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2階は石炭の用途などを説明したパネル類が展示されています。
 
 
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石炭の樹。石炭からは化学合成で繊維、薬品、樹脂、燃料などあらゆるものが作られた、
現在だとその大部分がコストや取り扱いの手軽な石油に置き換わってしまったが、基本的には石炭で作られるものは石油でも作ることができる。その逆も然り。
 
 
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北炭マークの石炭。
なぜかその上には硫安と尿素の小袋が……重しの代わり?
 
 
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実際の炭鉱での作業のパネル展示。
これらの写真はすべて写真集「ふるさとヤマ真谷地」からの抜粋です。
本と違ってこれだけ大きなパネルで見ると、迫力があります。
 
 
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カラーだと嬉しかったのですが、まぁ贅沢は言うまい。
 
 
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炭鉱の建物と坑道の模型。
 
 
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夕張新鉱事故に関連する写真のパネル展示。
「26年」と書かれているが、2007年からもう5年も経過しているので数字は書き換えるべきだと思う。
(気にするのは自分だけかもしれないが)
 
 
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93名もの死者を出した1981年の事故後、夕張新鉱の閉山阻止・再建活動などが何度も行われたが、どれも実を結ぶこと無く政府によって閉山が決定された。
夕張市期待の最新鋭ビルド鉱として生まれ、わずか8年の運命だった。
 
 
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夕張新鉱の看板や稼働当時の写真。
 
 
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夕張新鉱に関する書籍類。
自分が見たこともない本もある。よ…読みたい。
 
 
 
続きます。