石炭の歴史村 石炭博物館 その2
前回の続きです。
友子の取立式。
友子とは、簡単に言えば炭鉱(鉱山)のギルド組織で、坑内作業における親方(先山)と弟子(後山)の契約と採掘技術の継承、坑内災害で負傷したり死亡したりした時の相互扶助などを目的としていました。
このマネキンで再現された取立式は、ヤクザ映画でもお馴染みな盃事とほぼ同じです。
なお、財閥系大手炭鉱が北海道に進出し、坑内の機械化・大規模化、炭鉱病院等の福利厚生設備が整えられてくると、前近代的な友子制度は次第に消えていきました。
ちなみに夕張で最後まで友子制度が残ったのは、1970年代の真谷地炭鉱(楓地区)でした。
どうでもいいけれど、この再現マネキンは衝立の陰にあるものだから、突然目に入るとかなり驚きます。
(実際、他の人も「うわっ!!」「びっくりしたー!」と言っていた)
三宝に載せられた53箇条の鉱山書の巻物、タガネ、せっとう、塩と水引。
夕張にあった諸炭鉱の看板。
機械化以前に使われたタガネとせっとう(石頭:片手のハンマー)など。
これらを使って人力で石炭を砕いていた。
鉱山技術を学ぶため、炭鉱会社は海外から多くの書籍を取り寄せて研究をした。
坑内用の測量器具。
坑道の掘進と切羽の構築には高度な数学的知識が必要でした。
坑木を切断・加工するための斧や鋸。
つるはしやタガネに代わり、採炭作業に一大革命をおこしたコールピックと削岩機。
ピックの登場により、極端に言えば昨日まで素人だった人間が数時間で数百kg~数トンもの石炭を、体力が続く限り砕いて掘り出すことが可能になった。
この機械類の採用で、師匠である先山から石炭の掘り方を後山に一子相伝の技術で叩き込むといった、旧来の友子制度が衰退していくこととなる。
北炭の採炭員募集ポスター。
石炭こそがエネルギーだった時代、東北の農村地帯(の次男・三男)や都市部の求職者に向けて安定した職場、高い給与をアピールした。
爆薬に点火するミリセコンド雷管と、爆薬と一緒に装填する詰め物の水タンパと砂タンパ。
ヘムシャイドのシールド型自走枠の模型。
多分、夕張新二鉱で使われていたものだと思う。
バッテリー式キャップライト。
右側にあるオレンジ色の物はバッテリーの背負い袋。
様々な坑内支保
鉄によるアーチ枠が一般的になる前は、現場でこのように坑木を切断して組み立てていた。
額に収められた救護隊員綱領と、坑内火災の高温で木炭化した坑木(右)と熔けた岩石(中央)。
なぜか通路側の台に載せられ展示されていた7号型酸素呼吸器。どこにも「触れないで下さい」とは書かれていなかったので、色々と弄ってみる。
かなり塗装が剥げているが、北炭のマークはまだ残っている。
酸素呼吸器を開いてみる。
上部の清浄缶が外されている以外、構造はほぼそのまま。
編上安全靴や古い型のCO自己救命器もありました。
フル装備の救護隊員のマネキン。
真っ暗な坑内でも目立つように純白の作業服を着用します。
金属や樹脂製のヘルメットが普及する前に使われていた布製坑内帽。
昭和30年頃までは一般的でした。
マネキンの前にあるテレビからは、5分間ほどの長さで夕張の炭鉱の歴史が流れていました。
眺めていると夕張新鉱の立坑解体シーンがありました。
…これをDVD資料として売ってくれないかなぁ(笑)。
同じく閉山当時の真谷地炭鉱も出ていました。
石炭ストーブ。
デザインが個性的で面白い。
この辺で2階の展示は終わります。
立坑のケージを模したエレベーター。
これに乗って地下展示へ向かいます。
続きます。