栄えていた頃の大夕張

どうも皆さんお久しぶりです。
前回の記事から期間が空いてしまいましたね。自分は筆不精なもので、ちょっと気を抜くとすぐこうなってしまう……現在色々と炭鉱ネタを収集してはいるのですが、どうぞ暫しお待ちを。

さて、自宅の物置を漁っていると、祖父&親父が大夕張に住んでいた頃の写真がごっそりと出てきた。とは言っても、その写真のほとんどは宴会だったり慰安旅行だったり葬儀だったり結婚式だったりと、このブログにアップをしても全く意味のないものばかり(俗に言う「ハレの日」の写真だ)。
そうだよな…半世紀近く前だと、写真はおいそれと気軽に撮影できるものではなかっただろう。カメラそのものが高価だったし、フィルムの撮影枚数も限られていたからだ。今みたいにデジカメやスマホでちょっと気になる風景を100枚単位でパシャパシャ、とはいかない時代だったのだ。
だがそれらの中にも興味深い写真が何枚かあったので、アップをしてみたいと思います。


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雪に包まれる冬の大夕張鹿島地区遠景。撮影年不明(代々木アパートがあるので1955年以降)。
この写真は、鹿島小学校の裏手にある高台から栄町~代々木町方面を撮影したもの。右手前に見える野球のバックネットは鹿島小学校のグラウンド。
画像中央部には木造の炭住に囲まれるようにたたずむ、コンクリート4階建ての代々木アパートが見える。


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大夕張ダム。撮影年不明(ダムが完成しているので撮影は1962年以降)。
制服姿の子が多数いるので、何らかの催し物(遠足?)であろうか。現在この撮影場所はシューパロダム(2015年完成)の湖底である。

ちなみに親父曰く、生前の祖父は酒のツマミを獲ってくると称して、鉱員仲間達と大夕張ダム直下の出水口へ行き、壁面に貼り付いているスナヤツメを真上からタモですくい取って持ち帰り、鍋にして食べていたそうな。
とても危ないので真似しないように。


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炭鉱のそば、夕張川のほとりの官行にあった三菱鉱業大夕張メタノール工場。撮影年不明(工場設備が完成したのは1959年以降)。
ここは以前の記事でもチラッと書いたが、自分の親父が若かりし頃に一時期働いていた工場だ。坑内のガス抜きボーリングで吸い取った濃厚なメタンガスは、パイプを伝って地上へ送られ、反応塔で化学処理をされメタノールとなった。そして製品となったメタノール(純度99.9%:工場関係者は『スリーナイン』と呼んだ)は三菱大夕張鉄道のタンク車に充填されて北海道各地に向けて出荷された。
1960年代中頃までは、大夕張の工場一つで全道のメタノール需要をほぼ賄えたという。
なお、この工場は1971年10月に操業停止・閉鎖されている。


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まだ吊り橋だった頃の(たぶん)白銀橋。
湖面にはうっすらと氷が張っている。


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大夕張神社の寒中禊。1962年12月31日撮影。
毎年大晦日の夜になると、炭鉱で働く鉱員・職員は褌一丁で頭には三菱の代紋が入った手ぬぐいを締め、足下はわらじを履き、鼻毛も凍る氷点下の大夕張神社へ年越し詣・新年詣で安全祈願をするのが伝統であった。
このイベントは後にNHKゆく年くる年で全国中継もされた。


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春の炭山祭・山神祭。撮影時期不明(カラーフィルムなので、普及を考えると1970年前後だと思われる)。
子供神輿の列。三菱大夕張の大きな幟があるので、大夕張神社の近くだろう。
現在の過疎化・高齢化が著しい夕張市では想像もつかないが、まだ複数の炭鉱が稼働していた当時はどこへ行っても大勢の子供がいた……と親父談。


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同じく祭りの列。撮影場所不明(駅前通?)。
後続の飾られたトラックの荷台には、太鼓や笛のお囃子を担当する人間が乗り込んでいる。


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子供達の列が代々木アパート前を練り歩く。
4階建て鉄筋コンクリート製の代々木アパートは、完成当時大夕張で最もモダンな炭鉱住宅として人気があり、入居倍率はかなり高かったという。


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烏帽子と白装束に身を固めた大人たちも神輿を担ぐ。


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道路を行進しているのは、服装からするとボーイスカウトの一団だろうか。背後の道路上にあるのは鹿島地区唯一の歩道橋。
そして歩道橋のそばには大夕張鉄道腕木式信号機が見える。ちなみに南大夕張駅~大夕張炭山駅間は1973年12月廃止。


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鹿島小学校グラウンドでの集合写真。


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撮影場所不明。
後ろのトラックはマイナーチェンジ後の初代三菱キャンター?


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画像中央やや左にある立派な建物は、大夕張炭鉱労働組合の事務所。
炭山祭の間は炭鉱も採炭はせず、一部の保安職員・鉱員以外は全員休みとなる。そしてこの貴重な時期を使って普段はできない立坑や斜坑のワイヤー張り替えや、大型機材の修繕を行っていた。


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撮影場所不明(緑町の集会所?)。
地面に座ってジュースを飲みながら休憩している子供達。瓶ジュースと実用自転車が時代を感じさせる。
この頃で10才前後の小学生だとすると、今では50代後半の年齢だろう。


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大人(世話役?)の周りに集まる子供達。


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着ている法被の襟に「みどり」と書かれているので、鹿島緑町町内会の子供神輿だろう(親父・祖父が住んでいた炭住も緑町にあった)。
以上、賑やかさと華やかさと生活感を感じる写真をアップしたが、この頃の大夕張地区には既に「閉山」という二文字が目前まで近づいていた。
祖父は大夕張炭鉱が閉山する直前に定年となり、それまで長年住んでいた炭住を引き払って札幌に退職金で家を建てて移住、親父も時を同じくして札幌にある会社へ就職して大夕張を離れた。

今では一部を除いて大部分が湖底へと沈んでしまった大夕張地区ですが、半世紀前までは大勢の人達が生活をしていた「街」があったのだ。

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夕張岳へと至る新白銀橋(2015年5月 撮影)