29年目の10月16日

このブログによく来られる方なら今更説明をするまでもないとは思いますが、今から29年前の1981年10月16日は、北炭夕張新炭鉱で93人もの死者を出したガス突出事故が発生した日です。
 
突出したメタンガス量は600,000立方m、同時に吹き出した炭塵は4,000立方mという驚くべき量で、これは1971年7月に発生した住友歌志内炭鉱ガス突出事故を大きく上回っていました。
 
事故直前の夕張新鉱の経営は極度の赤字となっていました。
開鉱当初の計画では夕張新鉱は1日5000トン、年間で150万トンの採炭が可能という触れ込みでした。単純に言うと石炭を150万トン掘り出して初めてペイできるという炭鉱、ということです。
しかし実際は、1日5000トンの出炭は何回かあったものの殆どはそれ以下で、年150万トンなど一度も達成したことがなく日常的に当初計画を下回っていました。
資金が足りなくなるたびに政府の懐を頼っていた北炭でしたが、政府としては北炭が「1日5000トン、年間150万トンの原料炭を掘り出す」という約束を信じて各種融資や便宜を図ってきただけに、開鉱して6年、口先だけでちっとも計画通りに進まない夕張新鉱に政府は愛想が尽き果てていました。
そして遂に1981年3月の石炭鉱業審議会の席上において、ようやく政府から得た夕張新鉱再建計画の支援は「これが最後の支援であり、もし再建できなければ自決せよ」という注釈付きで、事実上の最後通牒でした。
 
この、国から突きつけられた最後通牒により、完全に退路が絶たれた夕張新鉱は、是が非でも約束通りに石炭を掘り出さざるをえない状況に追い込まれました。1975年からずっと掘っていた主力の西部区域は既に終掘に近い状態で、最後の希望は北部区域にある手付かずの新しい炭層でした。
だが、通常の掘進・採炭計画では期間的に間に合わせるのは到底無理なので、10月に入ってから予定を二ヶ月前倒しして通常の倍近いスピードの急速掘進を指示します。そしてこの焦りが夕張新鉱の命取りとなりました。

ガス突出事故の発生原因は簡単で、保安から完全に逸脱した掘進作業にありました。
ガス抜きボーリングは満足にこなさず、ガス検知器が作動しないように目盛りをいじる、ガス濃度の上昇を訴えても無視され、職員に抗議すると解雇をちらつかせ、エアバルブの絶対数が足りずきちんと動かないのもあり、坑内避難訓練も大して行われていませんでした。
これが「最新鋭の管理体制を持つコンピューター炭鉱」と宣伝された夕張新鉱の、あまりにも哀しい実態でした。
 

10月16日
 午後0時41分頃
  掘進作業中であった北部区域北第5盤下坑道立入No,1 十尺層上段ロングゲート坑道から大量のメタンガス   と炭塵が突出。
  当時、炭鉱内では800人近い鉱員が作業中だった。
  ガス突出をセンサーが感知したと同時にインターロックが作動し、現場周辺は電源供給がストップする。
  北部区域にいた鉱員達は完全にパニック状態となる。  
 午後1時15分
  北炭真谷地炭鉱(夕張市)へ救護隊の派遣要請。
 午後3時00分
  北炭幌内炭鉱(三笠市)へ救護隊の派遣要請。
 午後5時30分
  空知炭鉱(歌志内市)へ救護隊の派遣要請。
 午後10時15分
  第5坑道最奥部で救援を待っていた15名の生存者と無線連絡が途絶える。
 午後10時30分
  坑内火災の発生を確認。活動中の救護隊全員へ退避命令。
10月17日
 午前2時15分
  林千明夕張新鉱社長、坑内注水を発表するが行方不明鉱員家族の猛烈な抗議により撤回。
  この時点で45人の死亡を確認し(坑内放置遺体を含む)、救護隊を含む50人の生死と所在が不明。 
 午前2時55分
  三菱南大夕張炭鉱(夕張市)へ救護隊の派遣要請。
 政府、夕張新炭鉱爆発事故対策本部を設置。
 
 
イメージ 1
夕張市清水沢清陵町の通洞脇にある夕張新鉱事故慰霊碑